ナマケモノときどきヤルキモノ

特に食欲に忠実です

ひとり居酒屋デビュー戦

「おっちゃん、生1な!」

頬を赤らめて、空になったジョッキをかかげるこの瞬間をどれだけ待ちわびたことか!

 

すっかり当たり前になった終電での帰宅

みずみずしさを失った老婆のように背中を丸め、いつもの20分間の道のりを歩もうとして気づく

 

焼き鳥の織り成すハーモニーが奏でる、よだれを呼び起こす香り!

 

はっと振り向くと、そこには赤いちょうちんを掲げたこぢんまりとした居酒屋

 

「居酒屋が私を呼んでいる!」

 

ゴクリと喉を鳴らした次の瞬間には右手が赤いのれんをめくっていた

 

しかし、私は忘れていた

 

私は味覚が開発途上であり、ビールを未だに好まないということを。

 

少し早まったかーーー

 

ほんの少しだけ後悔しつつ、迷いなくカウンター席へロックオン!

 

ドアを開け、カウンター席へ歩を進める間はスローモーションのようであった。

 

『生1つ!の夢は保留、とするならば頼むものは大好きなアレしかない

最初が肝心である。

テレビの音が響くここで叫ばずに注文をしたらどうなるのだ

聞き返されては、半人前だ!』

 

私は椅子を引きつつ、大声で叫んだ。

 

ハイボール1つ!」

 

決まった、

 

澄ました顔でスマートフォンを取り出し、意味もなく青空に白い鳥が飛ぶアプリを起動。

 

「トリスですか?角ですか?」

 

突然舞い込む、試練その1

 

トリスと角、どちらが通っぽいのだろうか

 

焦った私はまともに考えず、早口気味にこう言い放った。

 

「どっちがオススメですか!」

 

ーーー知るかそんなもん!

そんな声が周りから聞こえてきそうである。

 

しかし、私はそんなものに動揺するようなヤワな女じゃない

 

「さっぱりしたいときはどっちが?」

 

極め付けには口角を上げ、店員の瞳を見つめるのだ。

 

「角ならレモンが入っててさっぱりですよ!」

 

お兄ちゃんはそう言い、微笑み返してきた。

 

「じゃあそれで」

 

頬の力を緩め、スッと目線をスマホに戻す。

 

これもまた演出である

必要以上の干渉をしないクールなオンナを演じるのだ

ドキドキと胸を高鳴らせつつ、頬づえをついて横流し気味の目線を画面に向ける。

 

「おまたせしました!」

 

カランと涼しげな音を立て、目の前にグラスが置かれる。

 

「ありがと」

 

チラッと店員の目を捕まえ、素っ気なさそうで優しいトーンで感謝の意を示す。

これは我ながら賞賛するべき名演技だったにちがいない。

他にカウンター席に座っている人も、私をひとり居酒屋のプロフェッショナルだと信じて疑わないだろう。

 

ゆっくり視線を走らせ、カウンター席に佇む同志を確認。

 

一人は仕事帰り風のアラフォー女子

一人は頭皮が危うい30歳前後ののサラリーマン

一人は同じく学生らしき20代の男

 

もし今ここでラブハプニングが起こるなら、年齢的に間違いなく最後の男であろう。

 

さらに見定めをしようと男に焦点を合わせる

喉仏を上下に鳴らしながら生ジョッキを飲む男なら合格である。

 

しかし、彼は私の期待を容赦なく裏切った。

 

「緑茶1つ」

「はいよ」

 

居酒屋なのに、緑茶…だと?

ーーいや、もしかしたら緑茶ハイかもしれない。

 

しかし、グラスには「おーいお茶」だけが無情にも注がれていく。

 

さすがに初日からラブハプニングなんて起こったら回収が追いつかないか、

と自己完結した私は、お好み焼きを頼みやがった彼を出し抜こうと冷奴をオーダーする。

 

冷奴に醤油を垂らし、割り箸を割った。

不恰好に割れた割り箸でかつおぶしを端っこの豆腐へ追いやる。

 

「今日は酒じゃないの?」

 

推定40代の、頭にタオルを巻いた男が奥から出てきて隣の男に絡む。

 

「今日はおっさんに会いに来たの」

 

お好み焼きを頬いっぱい詰め込んだ彼はストローをくわえ、そう言った。

 

おっさんと呼ばれた男は鼻で笑い、「おまけだよ」と冷奴を彼に差し出した。

 

お好み焼きにハフハフと息を吹き付けて飲み込んでは、無料の冷奴に手を出しながら緑茶をチューチュー飲む彼。

その隣でハイボール片手に有料の冷奴をつまむ自分。

 

この光景が頭に浮かび、やるせない気持ちになった。

 

居酒屋でノンアルを頼むイキったやつなど認めん、と思っていた先程までの自分を崖の上から突き落としたくなった。

 

アルコールにばかりこだわっていた自分が愚かである

居酒屋で緑茶を頼む彼こそが、真のプロフェッショナルである。

 

私は冷奴をハイボールで流し込み、立ち上がった。

 

「会計お願いします。」

 

潔く、【敗北】を認めた私はのれんを後にした。

その後の私の行方は誰も知らないーーー